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2019-01

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『近代科学の知』と『未来の知』

'93 総合政策
「『近代科学の知』と『未来の知』」


問題
 西欧近代が生みだした「科学の知」は全人類史に普遍的な、唯一絶対の知であると主張する説に対して、最近では、近代科学を相対化し、知の多様性と多元性を強調して、新しい知の可能性を摸 索する試みがさまざまな形で行われています。以下のA、B、C 3つの文章は、そうした最近の試みを示しています。
 3つの文章それぞれの論点に言及しながら、近代西欧の「科学の知」の主要な問題点を指摘し、「未来の知はいかにあるべきか」について、きみ自身の考えを1000字以内で述べなさい。

文章A
 科学の知と技術文明によって、人間には限りないバラ色の未来が約束されるように思われた。部分的には不可能に見えることや、不都合なこと、深刻なことが生じても、それらはやがて克服され るものと信じられた。ところが現実は、そういう方向にばかりは進まなかった。それどころか、現実や自然から人間は手きびしいしっぺがえしを受けるようになった。現にこの地球上において、われわれ人間は誰でも、多かれ少なかれ自然破壊や環境汚染から被害を受けるようになったし、われわれ人間の生活環境は、自然的にだけでなく、社会的にも、精神的にも、危険に充ちたものになっ た。
 科学の知の万能でないことが人々によって次第に気づかれるようになったのは、そのような面からだけではない。もう一つのあらわれとして、こういうことがある。すなわち、科学の知が、信頼されすぎ、独走した結果、それにうまく合致しない領域、事柄の性質上、曖昧さを残さざるを得ない領域を、正当に扱えなくなった、ということである。そういうことがはっきりしてきたのは、一 般的にいえば、〈経験がものをいう〉領域や〈ことばが大きな働きをする〉領域においてである。それにしても、近代科学がこれほどまでに人々に信頼され、説得力をもったのは、なにゆえであろうか。古今の数ある理論や学問のなかで特別の位置を占めたのは、なにゆえであろうか。一口でいえば、近代科学が十七世紀の〈科学革命〉以後、〈普遍性〉と〈論理性〉と〈客観性〉という、自分の説を論証して他人を説得するのにきわめて好都合な三つの性質をあわせて手に入れ、保持してきたからにほかならない。
 まず〈普遍性〉とは、理論の適用範囲がこの上なく広いことである。例外なしにいつ、どこにでも妥当するということである。だから、そのような性格をもった理論に対しては、例外を持ち出し て反論することはできない。原理的に例外はありえないのだから。次に〈論理性〉とは、主張するところがきわめて明快に首尾一貫していることである。理論の構築に関しても用語の上でも、多義 的な曖昧さを少しも含んでいないということである。したがって、そのような性格をもった理論に対しては、最初に論者によって選ばれた筋道によってしか、問題が立てられず、議論できないこと になる。最後に〈客観性〉であるが、これは、或ることが誰でも認めざるをえない明白な事実としてそこに存在しているということである。個々人の感情や思いから独立して存在しているというこ とである。だから、そのような性格をもった理論にとっては、物事の存在は主観によっては少しも左右されないということになる。
 しかしながら、〈現実〉とは、このように近代科学によって捉えられたものだけに限られるのだろうか。というより、このような原理をそなえた理論によって具体的な現実は捉えられているだろ うか。否であろう。むしろ、近代科学によって捉えられた現実とは、基本的には機械論的、力学的に選び取られ、整えられたものにすぎないのではなかろうか。もしそうだとすれば、近代科学の〈 普遍性〉と〈論理性〉と〈客観性〉という三つの原理はそれぞれ、なにを軽視し、無視しているのだろうか。それらは、なにを排除することによって成立しえたのだろうか。
 [近代科学への反省をふまえて、私が提唱する]〈臨床の知〉とは、狭い意味での医学的な臨床の知ではない。近代科学が見落とし排除してきた諸側面を生かした知のあり方であり、学問の方法で ある。
臨床の知の考え方が批判の対象とするのは、なんといっても近代的な〈科学の知〉なので、やはり、それとの対照において、問題を捉えていくことにする。
 さて〈臨床の知〉は、科学の知の三つの構成原理を先のように端的に、(1) 普遍主義、(2) 論理主義、(3)客観主義と呼ぶとき、そのそれぞれに対して、(1)コスモロジー、(2)シンボリズム、(3) パフォーマンスと私が呼ぶものを構成原理としている。
 そこでまず、第一にコスモロジーであるが、これはなによりも、場所や空間を――普遍主義の場合のように――無性格で均質的な拡がりとしてではなくて、一つ一つが有機的な秩序をもち、意味 をもった領界と見なす立場である。したがってまた、ここにおいては、個々の場合や場所(トポス)が重要になる。つまり、天球についてかつて言われたコスモスの性質を、マクロコスモス(大宇宙) に対するミクロコスモス(小宇宙)のように、さまざまの具体的な場所や空間のうちに見る見方である。
なにかの出来事が起こるとき、それが自然現象であるときでさえ、実際にはこのような場のなかで起こっている。その出来事が人間に関したことであれば、そのような場で活動するにせよ、生活するにせよ、あるいは他人と関係するにせよ、空間の質や様相や意味が、そこにいっそう深くかかわってくるわけである。
次に第二に、ここでシンボリズムというのは、文学上の象徴主義のような、限定された意味ではない。それは、抽象記号にではなくてことばによるように、物事をそのもつさまざまな側面から、一義的にではなく、多義的に捉え、表わす立場である。たとえば、腕時計の在り様について考えてみると、多くの時計は、概念としては同じく腕時計であっても、互いにずいぶんその在り様がちがう。
 今日では、時計といっても、単に時間を測り、時刻を知るためだけのものはほとんどなく、安くてもデザインの奇抜なもの、高ければ側に多くのダイヤモンドを埋め込んだもの、など、いろいろ な種類のものがある。つまり、ただ実用的な目的だけのためには作られていない。このような意味の多面性、多義性は、時計のようなものだけでなく、どんな平凡な石ころにでもいえる。したがっ て、シンボリズムとは、物事には多くの側面と意味があるのを自覚的に捉え、表現する立場なのである。
 最後に第三には、パフォーマンスであるが、ここで、パフォーマンスとは、工学的な意味での〈性能〉のことでないのはもちろんのこと、しばしば誤って考えられているように、ただ体を使い、 体を動かしてなにかをやるだけのことでもない。体を使っての全身的な表現である場合もあるけれども、パフォーマンスであるためには、なによりも、行為する当人と、それを見る相手や、そこに 立ち会う相手との間に相互作用、インタラクションが成立していなければならない。
 しかも、そのような相互作用が成立するのは、なにかの特別な挑発がなされているからではない。そうではなくて、人間が身体性を帯びて行為し、行動するからであり、そのときひとは、おのずと、 わが身に相手や自己を取り巻く環境からの働きかけを受けつつ、つまり自己のうちにパトス的〈受動的、受苦的〉な在り様を含みつつ、行為し、行動することになるからである。
 したがって、コスモロジーとシンボリズムとパフォーマンスの三つを特性あるいは構成原理とする〈臨床の知〉は、近代的な〈科学の知〉と対比して、次のようにまとめられることになる。すな わち、科学の知は、抽象的な普遍性によって、分析的に因果律に従う現実にかかわり、それを操作的に対象化するが、それに対して、臨床の知は、個々の場合や場所を重視して深層の現実にかかわ り、世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互行為のうちに読み取り、捉える働きをする、と。
 ことばを換えていえば、科学の知が冷ややかなまなざしの知、視覚独走の知であるのに対して、臨床の知は、諸感覚の協働にもとづく共通感覚的な知であることになる。というのも、臨床の知に おいては、視覚が働くときでも、単独にでなく他の諸感覚とくに触覚を含む体性感覚と結びついて働くので、その働きは共通感覚的であることになるのである。
 ところで、このような臨床の知は、科学の知が主として仮説と演繹的推理と実験の反復から成り立っているのに対して、直感と経験と類推の積み重ねから成り立っているので、そこにおいてはと くに、経験が大きな働きをし、また大きな意味をもっている。
[中村雄二郎著『臨床の知とは何か』より抜粋・調整]


文章B
 [次頁破線以降部分の著者である]ジョンソンは、これまで主流をなしてきた意味と合理性の理論が、現在、由々しい危機に直面しているという確認から議論を始めている。意味・理解、推理のすべ ての面で想像力が果たしている中心的役割がまったく無視されていること、これ以上に深刻な危機があるだろうか。
 想像力に無知なばかりか、意味と合理性の理論そのものに危機をもたらした考え方を、ジョンソンは「客観主義」と名づける。客観主義とは、意味と合理性を純粋に概念的なものとみなす考え方、 逆に言うと、身体による経験や、そうした経験を構造化する想像力には何の役割も与えないような考え方、にほかならない。客観主義のこうした特徴があからさまに示されているのは、おそらく意 味理論の分野だろう。
 この理論によれば、意味とは記号と現実との間の客観的関係に基づいているという。関係の一方の当事者である記号については、それ自身では意味も固有な構造もそなえていない、まったく抽象 的で恣意的な存在者にすぎないとみなされる。ふつう記号に伴なう観念やイメージ といった要素は、意味の規定には役割を演じない主観的なものにすぎないとして排除される。そして他方の当事者で ある現実については、まずそれが事物、事物のもつ特性、事物が互いに結ぶ関係、これら三者から成り立っていること、そしてこれらはいずれも人間の理解する働きから独立に、つまり「客観的に」 存在することが主張される。
 さて、抽象的な記号は現実の要素と対応するかぎりで意味をもつ。たとえば、「富士山」といった指示表現は客観的に存在する富士山を指している。述語(動詞や形容詞)は、「高い」といった特 性や「より高い」のような関係を指示している。文が真であるのは、指示された存在者がそれに付与された述語の指す特性を現実にもっている場合(「富士山は高い」)、あるいは指示された存在者 同士が述語の指す関係を実際に結んでいる場合(「富士山は都庁ビルより高い」)である。くどいようであるが、どちらの場合にも理解の働きは介在しない。こうして、文の意味とは、この文を真とす るような条件(真理条件)にほかならないとされる。こんなにも単純で明快な見解がほかにあるだろうか。
 ジョンソンはこの説明に登場する「記号」、「事物」、「関係」などの語はすべて空虚だという。なぜなら、記号の働く場面には同時に必ず人間の「理解」の働きが伴うのに、この説明では一言も この事実に触れられていないからである。代案として彼が提示するのは、概念の形成やカテゴリー把握に不可欠な役割を果たす「身体」の意義を強調し、イメージ図式や陰喩的投射を作り出し操作 する「想像力」を重視する意味理論である。
 客観主義が古代から連綿と受けつがれてきた西欧の思想の伝統であって、特に科学主義と高度な技術文明を生み出した近代にまことによく適合するとすれば、認知意味論を一つの軸として展開さ れるジョンソンたちの反客観主義の思想は、かねてから各方面で唱えられているポストモダニズムの潮流におのずと流れこむ。確定した一つの真理の代わりに、文化や概念図式に相対的な複数の真 理。あるいは、真理の絶対性そのものの失効。硬直した理性の支配にたいする想像力の復権。概念、命題、言語で言い表せるもの、離散的なものの代わりに、概念化以前のもの、イメージ、図式、連 続的なもの。透明で純粋な精神ではなく、むしろ不透明で不純な身体。字義的で一義的なものより、比喩的だったり多義的だったりするもの――ポスト近代への道筋は、明らかに、前者から後者へと 向かっている。
 しかし、こうした反客観主義を誤解してはならない。客観主義に異講を申し立てることは、客観主義の対極にある主観主義に与することではない。主観主義とは客観主義のたんなる裏返しにすぎず、 それもまた「神話」なのである。客観主義を採らないということは、主観主義も採用しないということ、このような不毛な二者択一をはるかに離れて「もう一つ」の道を進むということなのである。
……………………………………………………………
 [近代科学の知識によって代表される西欧の合理性の]危機へ適切に対処するための鍵は、意味と合理性にかんする<客観主義的>説明では無視され低い価値しか与えられていなかったもの――人 間の身体、特にわれわれの身体化された経験が創発する想像力と理解の構造へ注目することである。〈客観主義〉はこれまで身体を無視してきた。なぜなら、意味の客観的本性とは関係ないとみな された主観的要素を、身体が導入すると考えられてきたからである。身体がこれまで無視されてきた理由には、次のこともあった。理性は抽象的で超越的なもの、すなわち人間的理解の身体面には 何ひとつ結びつきをもたないもの、と考えられてきたからである。身体は、抽象的な事柄にかんしてわれわれが行う推理には何の役割も果たさないように思われる。それゆえに身体はこれまで無視 されてきたのである。
 身体化された想像的理解という、この重要だが過小評価された観念を具体的に説明するために、[私の]研究の中心を占める想像的構造の二つの型、すなわち、イメージ図式と陰喩的投射とを考えて みよう。イメージ図式とは、われわれの知覚的相互作用と運動プログラムに、繰り返し現れる動的パターンであり、これによってわれわれの経験に首尾一貫性と構造とが与えられる。たとえば、垂 直性(VERTICALITY)図式は、われわれが経験から意味に満ちた構造を取り出す場合に上-下(UP-DOWN)という方向づけを用いる傾きがあることから創発する。われわれは、垂直性というこの構造を、毎 日経験する数千にものぼる知覚や活動、たとえば、樹を知覚すること、立ち上がるときに感じられる感覚、階段を昇るという行動、旗棹の心的イメージを形づくること、子どもの背の高さを測ること、 浴槽を上がってゆく水面の高さの経験など――の際に、繰り返し把握している。垂直性図式はこうした垂直性の経験、イメージ、そして知覚の抽象的構造である。[以上]のような、経験に基づき想 像力に媒介されたイメージ図式的な構造は、意味と合理性にとって不可欠な要素である。
 私の探求の中心を占めているのは身体化した想像的構造であるが、この構造と関係した第二の類型は、陰喩にほかならない。私は陰喩を理解にひろく浸透した様式と考えている。すなわちこの様 式は、種類の異なる他の領域を構造づけるために、ある経験領域からそこへパターンを投射するやり方なのである。こう考えた場合、陰喩はたんなる言語的な表現様式ではない。それはむしろ、主要 な認知的構造の一つである。この構造のおかげで、われわれは首尾一貫した秩序ある経験をもつことができるのであり、そうした経験にかんして推理を働かせたり意味をとったりすることができるよ うになるのである。われわれは抽象的理解を組織するために、物理的経験のなかに現れるパターンを、陰喩という形で使用する。具体的なものから抽象的なものへの陰喩的投射によって理解を行う 場合、二つの仕方で物理的経験が利用される。第一に、経験のさまざまな物理的領域でなされるわれわれの身体運動と相互行為が(イメージ図式に関して見たように)構造づけられるのであって、 この構造は、陰喩によって抽象的な領域へ投射することができる。第二に、陰喩的理解は、任意のものから任意のものへの、何の制約もない、恣意的で、気まぐれな投射などではない。具体的な身 体経験は、陰喩的投射への「入力」を制約するだけでなく、投射そのものの本性、すなわち領域をまたがって生じうる写像の種類をも制約するのである。
 意味と推理へ課せられたこうした制約の一例として、ごく単純ではあるが広く行き渡った陰喩的理解を考えてみたい。すなわち、多いほうが上だ(MORE IS UP)という例である。「多い方が上だ」 という命題を用いた表現は、それ自身は本来命題ではないさまざまな連関からなる、複雑で経験的な網目を名づけるためのやり方、いくらか誤解を招きやすい手短なやり方にすぎない。われわれが 量というものを上述した垂直性図式を用いて、現にやっているような仕方で理解しているのは偶然ではない。物価は上昇を続けている(Prices keepgoing up)、毎年出版される書籍の数は上りつづ けている(The number of books published eachyear keeps rising)、彼の総収入は低下した(Hisgross earnings fell)、などの例は、われわれがより多く(増加)を上(これは垂直性図式を伴う)に 方向づけられたこととして理解している事実を示唆している。上からより多くへの陰喩的投射が自然だということ、より多くが下という方向づけを伴わないこと、こうしたことにはきちんとした理 由がある。それを説明するには、われわれの最もありきたりな日常の身体経験とそれに伴うイメージ図式に言及しなければならない。もし容器により多くの液体を加えると、液面が上がる。積み重 ねたものにもっと多くのものをつけ加えると、その高さが上昇する。より多くと上は、このように、われわれの経験において相関している。この相関によって、量にかんするわれわれの抽象的理解に 対して物理的基礎が与えられるのだ。
 それゆえ、「身体」という用語を、[私は]、理解の想像的構造(たとえば、イメージ図式やその陰喩的洗練)が身体化の働きに起源をもつことを表すための総称、として[使用する]。私の企てを別の言 い方で言い表せば、次のようになる。〈客観主義〉とは異なり、私は、意味と合理性にとって身体化された人間的理解が不可欠であるという事実に注意を集中する。われわれは環境と相互に作用し合 う身体をそなえた生体であって、「理解」という語はもちろんここでは、こうした生体としてのわれわれの経験から創発される想像的構造をまさしく宿したものと解されている。われわれの理解と いう働きは、経験にそなわる多数の前概念的および非命題的構造(たとえば、イメージ図式)を必要とする。これらの構造は、陰喩的に投射され命題へ仕上げられて、意味のネットワークを構成しう るのである。 [ここで私は、]身体化された理解の構造が[客観性に対して]もつ明らかな重要性を強調したい。これは、共有された構造であって、共同体が何を「客観的」とみなすかを規定するの に役割を演じている。
 とすれば、客観性とは、適切な、公共的に共有された理解ないし観点である。これには、個人的偏見、個人特有の見解、主観的な表象を超えるという契機が含まれている。客観性を可能にするの は、理解にそなわるイメージ図式[などの]構造がもつ公共的本性と、そうした構造に基づく陰喩的、換喩的投射とである。客観性を手に入れるのに〈神〉の視点をとる必要はない。それはできない相 談だ。そうではなくて、身体化された想像的理解を通じて実在に結びついている、適切に共有された人間の視点をとらねばならないのである。
[マーク・ジョンソン(菅野盾樹・中村雅之訳)「心のなかの身体」より抜粋・調整]


文章C
 自然科学が人間の知的営みの一つであること、そしてそれゆえに、自然科学といえども、時代と社会と文化との制約を免れないこと、その意味で科学は、近代西欧に特徴的な考え方を基本として はじめて成立し得る「局地的」な性格を備えており、全人額史を通じて普遍妥当するものではないことは、(今日広く認識されている。)
問題は、なぜそれほど局地的なものが、現在これほど普遍的に地球全体を被い尽そうとしており、またそのこと自体に、逆に激しい反発が巻き起こりつつあるのか、そしてその結果として、選択のできるものであるとすれば、科学の未来として、われわれは何を選択すべきであるのか、という点であろう。
 「局地」的な近代西欧の科学技術が、今日「普遍的」で絶対的な意味をもつかのように、地球上に拡大し、かつ拡大しつつある最大の理由は、その現実への「有効性」にある。
 局地的な近代西欧科学を普遍・絶対であるかのように思わせる最大の要因が、その「有効性」にあり、また、その「有効性」が、この世界を「一意的な法則による、時間・空間内の事象の記述」 として描き上げる、という科学に与えられた能力にあったとしても、それで世界が十全に把握できたことにはならない、ということは、実は、近代西欧科学が確立された直後から気づかれていた。 というよりも、逆に見れば、近代西欧科学の視点は、ヨーロッパという文化圏が築き上げてきた重積するいくつかの視点のなかから、ある一つだけを取り出し、それをグロテスクに研ぎ澄ましてき た結果として確立されたものだ、と言う方が正確かもしれない。
 とすれば、残されたそれ以外のいくつかの視点からする科学批判、ないしは、他の選択肢の提案は、近代から現代への西欧の歴史の展開のなかで、むしろ当然のこととして行われてきているのであ る。
 超常現象まで飛躍しないとしても、かりに「一意的法則によって、時間・空間のなかに事象を記述する」ことを科学が一枚看板にするとすれば、「心」の現象が、その記述の網目からは脱げ落ち てしまうということになる。そうした点から考えれば、近代科学の延長上にある現代科学が、ある種の飽和状態にあって、何らかの新しい選択肢を模索していることもまた明らかである。
 新しい選択肢を、まったくの無から創出することは至難である。安易ではあるが比較的稔りの多い方法は、過去の歴史のなかにモデルとなるべきものを探してみることであろう。もっと具体的に言えば、西欧近代が、「一意的な法則による、時間・空間の事象の記述」に注意を集中するあまり、そのなかに内包しながら等閑に付してきたいくつかの視点の再検討という作業がそれに当たる。もちろん、実を言えば、この再検討という作業の対象は、ヨーロッパの過去に限る必要はなく、ひろく非西欧圏にも探索の手を伸ばすべきであり、現今では、むしろ西の行きづまりから「東へ東へと草木もなびき」かねない状況にある[といってもよいほどである。]
 ここでは差し当たり、ヨーロッパの伝統のなかに内包されつつ、近代の「ドグマティズム」のなかで表看板たり得なかったもののなかから、ある一つの点にスポットを当て、それが、新しい可能 性の模索の対象となることができるかどうかを、考えてみることにしたい。
 それは、一言で言えば「協和」という理念である。この「協和」の理念が最も重要な働きをした、われわれにとってなじみ深い人物は、ケプラーであろう。ケプラーにおいては、それこそが、彼の 惑星の運動に関する三つの重要な法則を導く決定的な鍵であった。
ケプラーにおいては、「協和」は、文字通り「協和音」でもある。「和音」というのは、「同時」に鳴ってはじめて「協和」か否かが判る。「和音」が「和音」たり得るのは、やはり「同時に」聴かれる音の響きによる。しかも、その響き全体は、そのなかの音の一つをわずかでも変えると、われわれの耳には完全に異なって聴こえてしまう。和音全体の響きの変化は、「同時」性のなかではじめて起るものである。
 同じことは、和音から派生した幾何学的図形についても言える。正三角形の一辺をわずかでも歪めれば、全体像はすっかり変わってしまう。全体の図柄の変化は、全体の図柄が「共時」的、「同 時」的にとらえられてはじめてそれと認知できるものであろう。
ここで整理をしておけば、和音とか図形などは、いわば「同時的」、「共時的」な秩序を示しているのであって、要素(たとえば和音を構成するいくつかの音、図形を構成する点や辺)間の関係は、「同時」的、「共時」的な地平の上に載せてはじめてその秩序を問うことができるものであることになる。
 このような要素間の「同時」的、「共時」的な関係は、西欧近代科学の表看板であるあの「一意的法則による、時間・空間内での事象の記述」からは基本的に脱落してしまう性格をもっている。 つまりは、「継時」的秩序のみを追求しようとするのが、西欧近代科学の特色であり、またある程度は、現代科学の特色でもあるからである。
 現代の科学が、あの表看板に代わるべき――といっても、「とって代わる」という相互背反的な意味ではなく、むしろ「それに重ねて」と考えるべきであろうが――何らかの新しい可能性を求め るとすれば、その最も手近な鍵の一つはここにあると言えるのではなかろうか。そしてこの線に沿った可能性の追究は、それと必ずしも主張されはしないにしても、すでにある分野では始まってい る、というのが私の判断である。それはシステム論の分野である。
 そして[システム論者]が、近代科学の表看板では、二つの要素どうしの間の因果的関係は取り扱えるが、三つ以上の要素の間のそれを同時に取り扱う手段をもたない(たとえば力学における三体問 題、多体問題の原理的不可能性)と言い、あるいは、微分方程式が唯一の戦略武器であると考える必要はないと説くとき、それは、私のこれまで述べてきた文脈のなかでは、「共時的、同時的」な 秩序に注目するべきである、という主張と同じものと解することができるのではないかと思われる。従来の継時的な秩序の詳細な追究を縦糸とした上で、同時的・共時的な秩序の横糸で、織物を織 ることができるとすれば、少なくともこれまでに無視され、気づかれなかった世界の様相の一面が、われわれの知的把握の舞台に姿を現すのではないか、という期待はもってもよいと私は考えている。 このことは、現在われわれが直面するいわゆる「生態学的危機」にも関連する。地球全体を一つの系(システム)と考えたときに、その系に含まれるさまざまな下位系(サブ・システム)の間の共時 的・同時的な秩序と、その変化に対する追究の方法論を、古典的な表看板を掲げた科学が持ち合わせていない、という点が、現代の科学の「行きづまり」と呼ばれることがらの、真正な内容ではな かったか。生態学が、現代の救世主のごとき扱いを受けるのも、それが、暗黙の裡に「共時的秩序」の意識を備えているからではないか。
 今日われわれが直面している問題の基本的特徴は、それらが文字通り「グローバル」だという点である。エネルギー問題、環境汚染問題、人口問題、食糧問題、いずれを取り上げても、単に一つの限局された視点から判断したり、処理したりすることができない性格のものである。
 西欧近代の表看板であるあの「一意的法則による、時間・空間内での事象の記述」という方式は、たしかに知識体系としては、宇宙に至る巨視的な規模から、素粒子に至る微視的な規模まで、すべ てを一貫した論理のなかに見据えることができる、という卓越した特性を備えてはいるが、一方から言えば必然的に、広域で同時的、共時的に起る事象どうしの間の有機的関係に関しては、ほとんど 無視せざるを得ない、という宿命を備えている。その点を勘案すれば、われわれの執るべき道は、何よりもまず、つねに地球全体の規模でものを見据えなければならない。言ってみれば、諸々の共 時的に地球上に存在する事態を、一望のもとに納めるだけの鳥の眼視角(バードアイ・ヴュウ)をもたなければならない。ここでも、共時的秩序の追究という提案は、有効性をもつであろう。
 だが、そういうメタ地域的な鳥の眼視角は、もつだけでは不十分である。その視角から得られた知識を、従前のような時間貫通的な視角から得られた知識と協合させ、地球的な規模での自然制御 に向かわせなければなるまい。しかも、ここでも共時的感覚が必要になる。なぜなら、そのような地球的規模での自然制御の対象は、人間の営みを含まない「自然」ではなく、また個人、家庭、地 域住民などの小規模な人間を含むだけではなく、国家、民族、文化圏などの一切を包含した文字通り総体としての「自然」だからである。ここに要求される「文化」こそ、ある意味で、自然をも包 み込む「文化」――これまでの「文化」が「自然」内的存在であったのに反して――言い換えれば、「超文化」〈meta culture〉とでも言うべきものであろう。
[村上陽一郎著『近代科学を越えて』より抜粋・調整]
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